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FIP

FIP(猫伝染性腹膜炎)|「ストレスがウイルスを直接変異させる」という誤解

本記事では、「ストレスがウイルスを直接変異させる」という説明を、遺伝的感受性、発症の引き金、ウイルスの複製と変異、Sタンパク質の変化という観点から検討します。変異の仕組みと発症に関わる要因を分けて整理します。

FIP(猫伝染性腹膜炎)|「ストレスがウイルスを直接変異させる」という誤解

はじめに

では、なぜ変異が起こるのでしょうか。
これまで聞いてきた中で、最も無理があるのに、最もよく耳にする説明が
「猫がストレスを受けることで、ウイルスが変異する。」です。

「ストレスが変異させる」という誤解

一見専門的に見えるペット情報サイトや、獣医師による一般向けの解説記事でも、この考え方が盛んに広められています。しかし、これは完全に因果関係が逆です。

遺伝的感受性と発症の引き金

猫コロナウイルスからFIPVへの変異も、ほかのウイルスの変異と同じように、主に宿主の遺伝子に関わる問題です。ストレスやほかの病気が、この変異を引き起こすことはありません。

これまでの研究では、猫のFIPに対する高い感受性を左右する遺伝子座の多くが、遺伝することが示されています。

すでに2013年のゲノム研究で、東南アジアの血統に由来するバーマンから、FIPの高い発症率と強く関連する、中核的な5つの免疫関連感受性遺伝子が見つかっています。※1 これが、バーマン、シャム、ラグドールなど、東南アジアの血統を持つ、あるいは近親交配が重ねられたポイントカラーの品種が、FIPの確定診断例で非常に高い割合を占める理由でもあります。

FIPの解説図

バーマンも、シャムも、バーミーズも、こうした遺伝子を持っています。そのため、ヒマラヤンやラグドールをはじめとするポイントカラーの品種は、ほとんどがこの遺伝的な問題と無縁ではいられません。※2

また、近親交配によって有害な劣性の遺伝子変異がホモ接合になることも、遺伝的な欠陥が表面化する重要な原因です。※3 野良猫の中には、何の外的刺激もなく「自然に」FIPを発症する猫がいますが、こうしたケースでは、この遺伝的な感受性が関わっていることが多いのです。FIPVに対する感受性を高める遺伝子は、世代を超えて受け継がれます。母猫にFIPの既往があれば、その子どもの発症確率も、一般の猫より大きく高まります。

ストレスは「変異」ではなく「発症」の引き金

一方、ストレスの実態は、猫の体内でグルココルチコイドが大量に分泌されることにあります。それによって、インターフェロンγの正常な分泌が妨げられるなど、猫自身の免疫機能が強く抑制されます。※4 つまり、ストレスの役割は「変異を生み出すこと」ではなく、「発症の引き金を引くこと」なのです。潜伏していた、あるいはごく少量にとどまっていたFIPVに対するT細胞の抑えが外れ、臨床症状を伴う病気として一気に表面化します。

言い換えれば、FIPVを持っていない猫であれば、体内に大量のFECVが存在していても、繰り返しストレスを受けたからといって、ウイルスの変異が起こることはありません。

コロナウイルスが複製・変異する仕組み

変異の原因を知るには、ウイルスがどのように複製するのかを理解する必要があります。

ウイルスは、その種類によって複製の仕組みが異なります。一本鎖DNAウイルス、二本鎖DNAウイルス、二本鎖RNAウイルスなど、それぞれ違う方法を使います。ここでは、コロナウイルスが属するプラス鎖一本鎖RNAウイルスに話を絞ります。

① 宿主細胞への結合

ウイルスのSタンパク質が、宿主細胞の表面にあるアミノペプチダーゼNのような金属プロテアーゼや、N-アセチルノイラミン酸などに結合し、侵入のための通路をつくります。※5

② 遺伝物質の注入

ウイルスは、この通路を通して、自分の遺伝物質を宿主細胞の細胞質へ注入します。

③ マイナス鎖RNAの鋳型をつくる

RNAポリメラーゼが合成され、ウイルスのRNA鎖を「鏡像」に写し取ります。これが、マイナス鎖RNAの鋳型です。

④ プラス鎖サブゲノムRNAの転写

ポリメラーゼは次に、この「鏡像」をもとに、多数のプラス鎖サブゲノムRNAをつくります。

⑤ ウイルスタンパク質の合成

それぞれのサブゲノムRNAの情報に従って、細胞内のアミノ酸がつなぎ合わされ、ウイルスを構成するさまざまなタンパク質がつくられます。

⑥ 新しいウイルスの組み立て・放出

最後に、これらの部品が組み上げられて新しいウイルスとなり、宿主細胞から放出され、複製が完了します。※6

RNAポリメラーゼは、この「鏡像」を写し取ったり、サブゲノムRNAを転写したりする際に、非常に間違いを起こしやすい性質があります。例えば、アデニン(A)であるはずの箇所を、グアニン(G)として写してしまうような間違いです。これは点突然変異と呼ばれ、蓄積すると抗原ドリフトにつながります。

さらに重要なのは、宿主細胞の細胞質にある遺伝的要因が、こうした間違いの発生確率を大幅に高めることです。

例えば、猫の体内にあるADAR酵素(RNAに作用するアデノシンデアミナーゼ)は、RNA上のアデニン(A)を脱アミノ化し、ヒポキサンチン/グアニン(G)への高頻度の変異を直接誘導します。※7

④で転写されたサブゲノムRNAに、このような誤ったコードが含まれていれば、その後の翻訳では、本来とは異なるアミノ酸を使って構造タンパク質が組み立てられます。変異は、このようにして起こるのです。

Sタンパク質とFIPVへの変化

猫コロナウイルスに話を戻すと、FIPVへと変化する際に鍵となるのは、多くの場合、Sタンパク質の重要な部位にあるアルギニン(R)が、リシン(K)などのアミノ酸に置き換わることです。

Sタンパク質は、宿主のフーリン(Furin)によって切断されることで、十分に活性化します。切断部位の近くにあるモチーフで重要なアミノ酸の置換が起こると、ウイルスの細胞指向性が大きく変化します。それまで腸粘膜の細胞にしか感染できなかったウイルスが、マクロファージにも効率よく侵入し、感染できるようになる。こうして、猫伝染性腹膜炎ウイルス(FIPV)が生まれます。※8

したがって、猫の体内にあるコロナウイルスがFIPVへと変異するかどうか。その鍵を握るのは、猫自身の細胞の遺伝的環境や酵素活性に、こうした転写の誤りを促す要因が数多く存在するかどうかです。一時的な心理的ストレスが、その原因なのではありません。

REFERENCES / EVIDENCE参考文献本文で参照した研究・文献(8件)

※1|バーマンにおける遺伝的感受性と5つの候補遺伝子

Golovko L, Lyons LA, Liu H, Sørensen A, Wehnert S, Pedersen NC.(2013)
Genetic susceptibility to feline infectious peritonitis in Birman cats.
日本語訳:『バーマンにおける猫伝染性腹膜炎の遺伝的感受性』
公開日:2013年4月22日(オンライン公開)。巻号の刊行は2013年7月。
掲載誌:Virus Research, 175(1): 58–63.
DOI:10.1016/j.virusres.2013.04.006

※2|猫種によるFIPリスクの違い

Pesteanu-Somogyi LD, Radzai C, Pressler BM.(2006)
Prevalence of feline infectious peritonitis in specific cat breeds.
日本語訳:『特定の猫種における猫伝染性腹膜炎の有病率』
公開日:2005年7月1日(オンライン公開)。巻号の刊行は2006年2月。
掲載誌:Journal of Feline Medicine and Surgery, 8(1): 1–5.
DOI:10.1016/j.jfms.2005.04.003

※3|近親交配、遺伝的多様性の低下とFIPへの抵抗力

Pedersen NC, Liu H, Durden M, Lyons LA.(2016)
Natural resistance to experimental feline infectious peritonitis virus infection is decreased rather than increased by positive genetic selection.
日本語訳:『実験的FIPウイルス感染に対する自然抵抗性は、抵抗性を高めるための遺伝的選抜によって、増加せず低下する』
公開日:2016年1月28日(オンライン公開)。巻号の刊行は2016年3月。
掲載誌:Veterinary Immunology and Immunopathology, 171: 17–20.
DOI:10.1016/j.vetimm.2016.01.002

※4|グルココルチコイドによる免疫応答の変化と、免疫抑制下でのFIPVの出現

Agarwal SK, Marshall GD Jr.(1998)
Glucocorticoid-induced type 1/type 2 cytokine alterations in humans: a model for stress-related immune dysfunction.
日本語訳:『ヒトにおけるグルココルチコイド誘導性のⅠ型/Ⅱ型サイトカイン変化:ストレス関連免疫機能異常のモデル』
発表:1998年12月。
掲載誌:Journal of Interferon & Cytokine Research, 18(12): 1059–1068.
DOI:10.1089/jir.1998.18.1059

Poland AM, Vennema H, Foley JE, Pedersen NC.(1996)
Two related strains of feline infectious peritonitis virus isolated from immunocompromised cats infected with a feline enteric coronavirus.
日本語訳:『猫腸コロナウイルスに感染した免疫機能低下猫から分離された、関連する2株の猫伝染性腹膜炎ウイルス』
公開日:1996年12月1日。
掲載誌:Journal of Clinical Microbiology, 34(12): 3180–3184.
DOI:10.1128/jcm.34.12.3180-3184.1996

※5|猫コロナウイルスの受容体とシアル酸との相互作用

Hohdatsu T, Izumiya Y, Yokoyama Y, Kida K, Koyama H.(1998)
Differences in virus receptor for type I and type II feline infectious peritonitis virus.
日本語訳:『Ⅰ型およびⅡ型猫伝染性腹膜炎ウイルスにおけるウイルス受容体の違い』
発表:1998年。参照した文献記録には公開月日の記載なし。
掲載誌:Archives of Virology, 143(5): 839–850.
DOI:10.1007/s007050050336

Desmarets LMB, Theuns S, Roukaerts IDM, Acar DD, Nauwynck HJ.(2014)
Role of sialic acids in feline enteric coronavirus infections.
日本語訳:『猫腸コロナウイルス感染におけるシアル酸の役割』
公開日:2014年5月29日(オンライン公開)。巻号の刊行は2014年9月。
掲載誌:Journal of General Virology, 95(9): 1911–1918.
DOI:10.1099/vir.0.064717-0

※6|コロナウイルスのRNA合成と、複製時の誤りを調節する仕組み

Kim D, Lee JY, Yang JS, Kim JW, Kim VN, Chang H.(2020)
The Architecture of SARS-CoV-2 Transcriptome.
日本語訳:『SARS-CoV-2トランスクリプトームの構造』
公開日:2020年4月23日(オンライン公開)。巻号の刊行は2020年5月14日。
掲載誌:Cell, 181(4): 914–921.e10.
DOI:10.1016/j.cell.2020.04.011

Eckerle LD, Lu X, Sperry SM, Choi L, Denison MR.(2007)
High Fidelity of Murine Hepatitis Virus Replication Is Decreased in nsp14 Exoribonuclease Mutants.
日本語訳:『マウス肝炎ウイルスの高い複製忠実度は、nsp14エキソリボヌクレアーゼ変異体で低下する』
公開日:2007年9月5日(オンライン公開)。巻号の刊行は2007年11月。
掲載誌:Journal of Virology, 81(22): 12135–12144.
DOI:10.1128/JVI.01296-07

※7|ADARによるRNA編集と、コロナウイルスの変化

Song Y, He X, Yang W, et al.(2022)
Virus-specific editing identification approach reveals the landscape of A-to-I editing and its impacts on SARS-CoV-2 characteristics and evolution.
日本語訳:『ウイルス特異的な編集検出法が明らかにするA-to-I RNA編集の全体像と、SARS-CoV-2の性質および進化への影響』
公開日:2022年3月2日(オンライン公開)。巻号の刊行は2022年3月21日。
掲載誌:Nucleic Acids Research, 50(5): 2509–2521.
DOI:10.1093/nar/gkac120

※8|Sタンパク質の切断部位の変異と、マクロファージ指向性

Licitra BN, Millet JK, Regan AD, et al.(2013)
Mutation in Spike Protein Cleavage Site and Pathogenesis of Feline Coronavirus.
日本語訳:『猫コロナウイルスのスパイクタンパク質切断部位の変異と病原性』
発表:2013年7月。
掲載誌:Emerging Infectious Diseases, 19(7): 1066–1073.
DOI:10.3201/eid1907.121094

Rottier PJM, Nakamura K, Schellen P, Volders H, Haijema BJ.(2005)
Acquisition of Macrophage Tropism during the Pathogenesis of Feline Infectious Peritonitis Is Determined by Mutations in the Feline Coronavirus Spike Protein.
日本語訳:『猫伝染性腹膜炎の発症過程におけるマクロファージ指向性の獲得は、猫コロナウイルスのスパイクタンパク質の変異によって決まる』
公開日:2005年11月15日。
掲載誌:Journal of Virology, 79(22): 14122–14130.
DOI:10.1128/JVI.79.22.14122-14130.2005

ARTICLE INFORMATION

執筆・監修/公開情報

本記事の執筆・監修者と公開履歴

CREDITS

01 / WRITER

猫博士研究チーム

02 / REVIEW

Li Yun 博士

獣医師

PUBLICATION

公開日

2025年3月14日

最終更新

2025年3月19日

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